映像文化の誤解
冬休みです。課題やってないです。
さて、今回は現国でやった、松浦寿輝「映像文化の変貌」についての感想とかそのへんのお話です。まぁ 1997 年の本らしいのであんまり時代に乗っている話ではない気がします。なんで今の今まで教科書に載っているのか。。
- 作者: 青山善充,松浦寿輝,馬場康雄,小森陽一,松永澄夫
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 1997/05
- メディア: ペーパーバック
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この文章を箇条書きにするとこんな感じだろうか
- 私達の心のなかには「エッフェル塔 = パリ」ということが映像を通じて刷り込まれてしまっているため、エッフェル塔は記号と化した
- これらイメージは空虚なものであるはずなのに、実体験のような錯覚が起き、しまいには現実の生々しい手応えに鈍感になってしまう
- 映像-現実 という対立関係がなくなり、映像だけが現実になっていく
- 映像の複製によって一度限りのかけがえなさが失われる
- 現実の輝きを繊細に感受しつつ、映像の氾濫の中で良いイメージを選び出すちからを研ぎ澄ます必要がある
まず、私は筆者の結論に対しては概ね賛成している。イメージの刷り込みに紛らわされず、生き生きとした現実を見つめる力が必要だと思う。
エッフェル塔はたいへん美しいものだ。我々は観光絵葉書のような「イメージとしてのエッフェル塔」に慣らされすぎているので、実際にパリに行っても、ああエッフェル塔があるなということで、特にその姿をじっと見てやろうという気にならない。美術館に陳列された絵画のような高尚な芸術なら、まじまじと見つめてその美しさを味わおうとするだろうが、エッフェル塔というのは今や「空虚」な記号と化してしまっているので、我々にとっては、その「実物」と正面から出合おうとする気持ちになりにくい。
今では毎日写真に撮り、近くにいけばまじまじと眺めるスカイツリーも、最初は「テレビでよく見てたし、こんなもんだな」と見事にイメージに惑わされ実物を味わおうとしなかった経験がある。確かにこれでは物の見方・考え方が幼いものになってしまうという問題がある。映像は映像、現実は現実の美しさがあり、どちらも大切にするべきだと思う。
では、反復可能な映像によって、現実の一瞬の輝きの価値は低くなるのだろうか。筆者は
映像文化の時代に入って、イメージがいくらでも反復可能・再現可能になってくると、「映像からアウラが失われてゆく。」ことになる。
複製技術が発達して、いくらでもイメージの繰り返しが利くということになると、こうした貴重で特権的な瞬間からアウラが失われていく。
と言っている。映像を消費する側からしたら、現実を見ていないで映像のみを見ているので確かに価値は低くなるかもしれない。しかし映像は表現であるということと、反復可能であることから、逆に現実よりアウラを帯びることもあると思う。
- 映像は表現であるので現実と違い加工することが出来る。そのためより魅力的に見せることも可能であり、現実とはまた違う、でも美しい貴重なものとなり得る。
- 反復可能であるため、他人と共有することが可能である。相手から見たらアウラは薄いものであるが、共有する側は共有する楽しみを上乗せすることができ、この人と共有する瞬間もまた貴重なものと言える。
- 映像の撮影者はその瞬間が貴重であると感じたから撮影する。よって撮影者はただ現実を見つめるより、ファインダー越しにみる現実のほうが魅力的なのかもしれない。
つまり何が言いたいかというと、映像を複製することは価値を失うことばかりではないということだ。複製できるからこその価値もまたそこに存在する。そういう映像文化に生きる私達だからこその新しい感受性が存在すると思う。
ところで、敬体で書いてたはずなのに書き始めたら常体になってたんだけどなんで…。